コラム

母は偉大

お子さんが一生涯を生きていく中で、お母さまの存在は、その価値観の多くを占めていくと言われています。
私自身を考えると、やはり自分の考え方の大きな根幹となっているのは「母の言葉」です。

私は幼稚園の年中でピアノを習い始めてすぐに「ピアノの先生になりたい!」と思ったわけですが、
母は「そうなのね」とそれからは全力で応援してくれていたと思います。



といっても、母は公務員をしておりましたので、ピアノへ通うのも自分の力で自転車で行ったり、
バスと電車を使っていったり、「私はあなたがやりたいことは応援するから、やりたいのはあなたなのだから、しっかり話を聞いてきなさい」と、
母が先生に会うのは発表会の時くらいで、あとはすべてを自分でやり取りしてきました。


そういう考えでいてくれたので、「ピアノの練習しなさい」とも「勉強をしなさい」とも、ただの一度もありませんでした。
私の力を信じ、任せてくれていたのだと思いますが、今考えても本当にそれが救いだったと思います。

あまり日常の細かなことで叱られた記憶はありませんが、とにかく「考える」ことにおいてはいろいろな言葉で言われました。


年長の時、ピアノの教室にあった自動販売機の缶ジュースをお友達と一緒に欲しがったところ、
缶を開けられなかった私は、「あけられない」と母に差し出しました。
すると母はひとこと「開けられない人は飲めない」と言いました。

そう言われてしまえば、自分でどうにかするしかないですから、私は母に小銭を借りてそれで缶を持ち上げ開けました。


いつも母の口癖は自分の力で考えなさいということばかりで、それは私の心の中で大きな価値観となっています。
「一を聞いたら10を知りなさい」というのは、幼稚園児の時には言われました。
その時にその言葉の意味を優しく丁寧に教えてくれましたので、それ以来言葉を聞くのではなく、
話の根底を聞く習慣はついたと思います。


小学4年生時に、理科で習う乾電池のことがわからないと一度だけ聞いたことがありました。
すると、「真剣に考えてもわからないならば、それがあなたの実力なのだから、あきらめなさい」と言われました。


今、教える立場になって、母の言葉の奥にあった気持ちが、本当によくわかります。
教えてしまうことは簡単。でも、教えられることなんて、ほんのとっかかりに過ぎないということ。


そして、「教えてもらえる」という甘えの気持ちが、教えてくださる方の話を真剣に聞く姿勢を奪い、考える力を一番奪うということ。

本当にありがたい教えだったと、大人になった今感謝の気持ちであふれています。

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